雑記

親愛なる○○に捧げる

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長州砲

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関門に旅した友人に貰いました。


今も関門海峡に設置されているこの「長州砲」は、日本でも結構有名な火砲になります。幕末は1863年、攘夷に燃える長州藩はこの火砲でアメリカ商船「ペンブローク」号を砲撃、ついでフランス、オランダの軍艦を攻撃します。すると翌年には、米・英・仏・蘭の軍艦17隻、大砲288門の4カ国連合艦隊が報復に押し寄せ、わずか3日で下関砲台は沈黙、占領されます。その後この火砲は戦利品として持ち去られ、フランスはパリの軍事博物館に保存されているのを発見され、外務大臣・安倍晋太郎(官房長官・安倍晋三の父)が交渉の末取り返してきました。

この下関砲撃事件はよく時代劇などで、「愚かで攘夷攘夷と叫ぶ幕末の日本人が、ようやく文明開化の威力を見て、目を覚ます事件」として取り扱われます。日本の火砲、届いてなかったらしい「ア・ボーン・ボーン」っつって笑うやつ。日本の火砲は4カ国連合艦隊にまったく届かず、下関砲台は射程外から一方的に砲撃されたと言います。で、イギリス軍艦が装備してたのが『M74』でシエスタがぶった切ったアームストロング砲でした。2倍の射程を持つと言うことが、どれほど効力のあるものかということでもあります。

この敗北からようやく明治維新が始まって、日本は一気に近代化するという歴史の見方があります。やがてはロシアを倒すほどの先進国になる。明治時代の人たちは偉かった、もっと見習え現代の日本人、と。


でも、私の感覚は少し違います。私はその、「明治維新」→「近代化」という歴史のとらえ方は完全に間違っていると思うんです。これは随分ひどいステレオタイプで、一度あらためて考えてみたほうがいいと思う。その一例が、この下関砲撃事件でしょう。

つまり、「長州砲の存在」です。
この青銅製の火砲は、1844年、萩の造砲家:喜平治信安の手によって既に生み出されていたんですよね。1854年がペリー来航で、その10年も前にこんな大砲が生み出されてたわけです。火砲みたいな危ないものを、幕府が好きに作らせるわけではありません。杉田玄白の「解体新書」みたいな例がありますが、「蘭学」というものがちゃんとあったわけで、江戸幕府は鎖国にありましたが、その科学技術はすでに近代の領域に入っていたんですよ。

地方では開明的な藩主が出て、例えば佐賀藩の鍋島閑叟はアームストロング砲をコピーする、洋式軍隊を作り上げるなど離れ業をやってのけますが、1800年代前半の幕府にも技術系官僚というか、技術系武士がちゃんといました。勘定吟味役:川路聖言莫(としあきら)や、伊豆韮山代官の江川英龍。他にも、中島三郎助、榎本武揚、勝麟太郎。幕府も後期になると、武芸よりもそろばんが出来ないと出世できないようになってきてましたし、やはり一国の中枢で仕事してる人たちというのは大したもんなんですよ。

江川英龍(活躍は1840~55)などは特に偉い人で、ペリー来航前に反射炉を作り上げたり、洋式砲術を会得した高島秋帆を幕府に登用させたり、お台場砲台を作ったりと大変な働きをします。


で、そもそも長距離兵站、機動的な軍による運動戦、長距離射程の大砲や小銃の一斉射撃(弾幕)、蒸気軍艦・艦隊運動みたいな近代的なものは、それこそナポレオン戦争以降の話です。そしたら、一体どのくらい日本が欧米に遅れてたかというと、10年以内だったと思うんですよ。日本は識字率が高いなど基礎が出来てました。その基礎を作ったのは、紛れもなく幕府であって、別に坂本竜馬や桂小五郎、西郷隆盛あたりが引っ張っていかなくても、幕府は幕府で独力でもうまくやったと思います。


だから、私が思うに、明治維新というのは中国で言うところの易姓革命(政権を持っている一族の姓が変わること。中身は何にも変わってない)であると思うんですよ。

もちろん何を持って近代化といったらいいかと言うところもあります。身分のある社会とか、自由の無い社会とかそういうのが、民主的な国家になったらすなわち近代化、と言っていいのかもしれないです。うーん、だけど例えば絶対王政みたいな封建制の国に、高層ビルとか高速ネット環境とかがあったら、民主的なサバンナの草原や農村より近代的みたいに見えるんですけどね…

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